対象読者

  • 医学・生命科学分野の研究助成や、研究資金を支える仕組みに関心がある研究者、大学・研究機関の関係者
  • 公益財団やフィランソロピーの歴史、資産運用、組織運営、社会的インパクトに関心がある方
  • グローバルヘルス、科学技術政策、研究成果の社会実装に携わる方

要約

  • Wellcome Trust(ウェルカム・トラスト)は、1936年に製薬事業家Henry Wellcomeの遺産をもとに設立され、現在では世界有数の医学・生命科学・グローバルヘルス分野の研究助成財団となっています。
  • 最大の特徴は、製薬企業から継承した資産を長期運用し、政府予算や外部からの寄付に基本的に依存せず、研究資金を継続的に供給できる仕組みにあります。
  • 2025年9月末時点の投資ポートフォリオは約399億ポンド、2024/25年度の慈善活動支出は約19億ポンドに達しています。
  • 現在は基礎・探索研究に加えて、感染症、メンタルヘルス、気候変動と健康を重点領域とし、研究成果を実際の健康改善につなげる活動を強化しています。
  • 世界的な研究資金の縮小、研究成果の社会実装、地域間格差、AIの進展、資産運用の持続可能性などに対応しながら、研究助成機関から社会変革を促す財団への進化を目指しています。

1. Wellcome Trustとは何か

Wellcome Trust(ウェルカム・トラスト)は、英国に本拠を置く独立した研究助成財団です。

1936年に製薬会社の創業者が残した資産を原資として設立され、現在では世界有数の規模を持つ、医学・生命科学・グローバルヘルス分野の研究助成財団へと発展しています。[1]

最大の特徴は、製薬企業の利益を医学研究に還元する仕組みから始まり、現在では巨額の投資ポートフォリオを長期運用し、その収益を研究活動に再投資する独立財団となっている点です。

2020年以降は、従来の基礎医学研究への幅広い助成に加え、感染症、メンタルヘルス、気候変動と健康という3つのグローバル課題に重点を置いています。

2026年には2032年までの戦略を改めて明確化し、研究成果を実際の医療・公衆衛生の改善につなげること、そして研究の恩恵をより公平に届けることを重視しています。[4][5]

Wellcome Trustの基本データ

項目 内容
名称 Wellcome Trust
設立 1936年
創設者 Henry Wellcome
本拠地 英国
組織形態 独立した公益財団・登録慈善団体
主な活動 医学・生命科学研究への助成、研究基盤整備、国際共同研究、政策提言、市民との対話
投資ポートフォリオ 約399億ポンド(2025年9月末)
年間慈善活動支出 約19億ポンド(2024/25年度)
2032年までの投資計画 2022〜2032年の10年間で160億ポンド以上

出典:Wellcome公式サイト、2025年度年次報告。[2][3][4]

Wellcome Trustを理解する上で、特に重要なのは次の5点です。

  1. 独自の財務モデル: 寄付や政府予算に基本的に依存せず、長期資産運用によって研究資金を確保しています。
  2. 基礎研究と社会課題の両立: 研究者の自由な発想を支援しつつ、重点分野では実社会への成果実装まで目指しています。
  3. 研究助成を超えた活動: 大規模研究機関、国際共同研究、政策提言、市民との対話など、科学研究の環境そのものを形成しています。
  4. グローバルな公平性の重視: 英国の科学基盤を維持しながら、アフリカや南・東南アジアにおける研究能力の強化に注力しています。
  5. 新たな転換期: 世界的な研究資金の削減、研究成果の社会実装、AIの進展、投資収益と持続的支出の両立などが重要課題となっています。

2. 設立から現在までの歴史

2-1. 創設者Henry Wellcomeと製薬事業

Wellcome Trustの創設者であるHenry Wellcome(ヘンリー・ウェルカム、1853〜1936年)は、米国生まれの製薬事業家です。

1880年、Silas Burroughsとともに英国で製薬会社Burroughs Wellcome & Co.を創業しました。

医薬品の大量生産、販売手法の革新、研究開発への投資などを通じて事業を拡大し、製薬業界で大きな成功を収めました。

Henry Wellcomeは、自身の死後にも医学研究が継続して支援されるように、会社と資産を公益目的に残すことを決めました。

1936年に彼が亡くなると、その遺言に基づいてWellcome Trustが設立されました。[1]

財団は製薬会社の全株式に加えて、彼が収集した医学・医療史に関する膨大なコレクションを引き継ぎました。

これが、今日まで続くWellcome Trustの資産基盤と研究支援活動の出発点となりました。

2-2. Wellcome Trustの発展年表

年代 主な出来事 意義
1880年 Burroughs Wellcome & Co.を創業 製薬ビジネスによる富が、後の財団の資産基盤となりました。
1936年 Wellcome Trust設立 Henry Wellcomeの遺言に基づき、製薬会社の株式や医学史コレクションを継承しました。
1938年以降 医学研究助成の開始 マラリア研究などを支援し、英国を中心に医学研究者、研究施設、医学史研究などへの助成を拡大しました。
1986年 Wellcome plcの株式上場 ロンドン証券取引所に上場し、株式の約25%を売却して約2億ポンドを調達。資産分散を進めました。
1995年 製薬企業からの独立 GlaxoによるWellcome plcの買収に伴い、保有株式の大部分を売却しました。
2000年代 大規模研究基盤と国際研究の展開 ゲノム研究、大型研究施設、共同研究、国際的な研究ネットワークへの支援を拡大しました。
2020年 研究助成戦略の大きな転換 基礎研究への支援を維持しながら、感染症・メンタルヘルス・気候と健康への集中を打ち出しました。Wellcome Leapも設立しました。
2022年 10年間で160億ポンドの支出計画 2022〜2032年の研究・健康関連活動への大規模投資計画を発表しました。
2026年 2032年戦略の具体化 研究成果の公平な利用、社会実装、政策への反映、地域研究力の強化を重視する方針を明確化しました。

出典:Wellcome公式沿革、年次報告、2026年戦略。[1][2][5]

なお、Wellcome plcの株式上場の実施年は1986年ですが、準備や初期売却の文脈で1985年に言及される資料もあります。

2-3. 1995年の転換:製薬会社から独立した財団へ

Wellcome Trustの歴史において、1995年は特に重要な転換点です。

それ以前の財団は、製薬会社の所有を通じて研究資金を確保していました。

しかし、GlaxoによるWellcome plcの買収に伴って保有株式の大部分を売却したことで、製薬企業の直接保有から、独立した資産運用・研究助成機関へと移行しました。[1]

この変化によって、特定の製薬事業の業績だけに依存することなく、多様な金融資産を通じて研究資金を確保できる体制が形成されました。

2-4. 2020年以降の転換:研究助成から社会課題の解決へ

2020年以降、Wellcome Trustは研究助成戦略を大きく転換しました。

従来の基礎研究への支援を維持しながら、感染症、メンタルヘルス、気候変動と健康という3つの課題に重点的に取り組む方向を示しました。

また、従来の助成制度では支援が難しい、高リスク・高インパクトの研究開発を推進するWellcome Leapを設立しました。

2022年には、2032年までの10年間で160億ポンド以上を投じる計画を発表しました。

さらに2026年の戦略では、研究に資金を提供するだけではなく、研究成果が社会にもたらす変化、政策への反映、健康改善への実装を重視する方向を強めています。[4][5]

2-5. Wellcome Trustの歴史を3段階で捉える

この約90年間の歴史は、大きく3つの段階に整理できます。

第1段階(1936〜1980年代):製薬事業の利益を研究に還元する財団

製薬会社から得られる利益を原資として、医学研究や研究施設への助成を行う段階です。

第2段階(1986〜2010年代):資産運用によって研究助成を大規模化する財団

製薬企業への直接的な依存を減らし、資産運用によって研究助成を拡大するとともに、研究インフラを形成する段階です。

第3段階(2020年〜現在):世界の健康課題を解決する仕組み自体に働きかける財団

研究資金の提供だけでなく、国際連携、政策提言、研究成果の社会実装などを通じて、健康改善を実現するための仕組みそのものに関わる段階です。

この変化は、Wellcome Trustが単なる資金提供者から、科学研究と社会の関係を形成する組織へと発展してきたことを示しています。

3. Wellcome Trustの組織的特徴

3-1. 永続的な研究助成を目指す独自の資金モデル

Wellcome Trustの最も重要な特徴は、巨大な基金を長期運用して得た収益を、研究活動に再投資する仕組みです。

財団は1936年に継承した製薬事業の資産を出発点として、株式売却と資産分散を通じて投資ポートフォリオを形成してきました。

現在のポートフォリオは、上場株式、プライベートエクイティ、ベンチャーキャピタル、不動産、ヘッジファンドなどの幅広い資産で構成されています。[3]

この仕組みは、以下のように整理できます。

  1. 歴史的な製薬事業から継承した資産: 1936年の遺贈から、株式売却と資産分散へと発展しました。
  2. 長期投資ポートフォリオの形成: 2025年9月末時点で約399億ポンドの投資資産を保有しています。
  3. 投資収益と計画的な資産活用: 長期的な財務持続性と研究支出の両立を目指しています。
  4. 研究活動への再投資: 基礎研究、研究人材、研究インフラ、重点的な健康課題、政策提言、社会実装などを支援しています。

この資金モデルには、主に3つの利点があります。

第一に、政府の政策サイクルや短期的な予算変更に左右されにくい点です。

第二に、数十年単位で成果が現れるような長期研究に資金を提供できる点です。

第三に、他の研究助成機関では引き受けにくい研究上のリスクを許容できる点です。

一方で、財務的な独立性があるからといって、資産運用上のリスクがなくなるわけではありません。

金融市場の変動はポートフォリオの価値に影響を与えるため、長期的な支出計画と運用収益のバランスが必要です。

また、Wellcome Trustは英国の登録慈善団体であり、財団の運営と投資について理事会によるガバナンスや法的監督を受けています。[2][3]

3-2. 基礎研究への支援と課題解決型投資の両立

Wellcome Trustのもう一つの特徴は、研究者の自由な発想による基礎研究への支援と、明確な社会課題の解決を目指す投資を併存させていることです。

これは、大きく「Discovery(発見)」と「Solutions(課題解決)」という2つのアプローチとして捉えられます。

項目 Discovery(発見) Solutions(課題解決)
基本思想 研究者の自由な発想を重視します。 解決すべき健康課題から逆算します。
研究領域 幅広い生命・健康科学、関連分野 特定の重要な健康課題
目標 新しい知識や方法の創出 介入策の開発と普及
時間軸 長期的な成果を許容します。 おおむね10年以内の変化も意識します。
評価の重点 科学的独創性、研究の質 科学的成果に加え、健康改善への貢献

この二本立ての考え方が、Wellcome Trustの重要な特徴です。

新しい知識を生み出す基礎研究には、実用化の見通しが明確でなくても支援する価値があります。

一方、感染症や気候変動のような社会的に重要な課題については、研究成果が実際の対策や医療改善に結びつくことも求められます。

Wellcome Trustは、この異なる時間軸と評価基準を持つ研究活動を、同じ財団の中で支援しています。[4][5]

3-3. 研究助成だけでなく、研究基盤そのものを構築する

Wellcome Trustは、外部の研究者や研究機関に助成金を提供するだけの組織ではありません。

大規模な研究機関や研究プログラムを支援し、科学研究の共通基盤を形成しています。

代表的な例として、次の3つがあります。

Wellcome Sanger Institute

世界的なゲノム研究拠点です。

大規模なDNA解析、遺伝学、疾患研究など、個別の大学研究室では実施が難しい研究のための基盤を提供しています。

Wellcome Collection

ロンドンにある、健康、医学、文化、人間の経験を扱う博物館・図書館です。

医学や健康に関する展示、資料公開、イベントなどを通じて、科学と社会の対話を促進しています。

Wellcome Leap

2020年に設立された組織です。

従来型の研究助成制度では扱いにくい、高リスク・高インパクトの研究開発を、明確な目標と期限を設定して推進しています。

こうした活動から、Wellcome Trustは単なる助成先の選定者ではなく、科学者、研究機関、技術、政策決定者、コミュニティを結びつける「研究エコシステムの形成者」としての役割を担っていると考えられます。[1][2][4]

4. 現在の重点分野

Wellcome Trustは現在、基礎・探索研究を含む4つの研究・健康課題を中心に活動しています。

さらにWellcome Collectionを加えた5つの領域が、主要な戦略プログラムとして位置づけられています。[2][4]

4-1. Discovery Research(基礎・探索研究)

Discovery Researchでは、生命、健康、ウェルビーイングに関する基本的な原理を理解するための研究を幅広く支援しています。

対象は分子・細胞レベルの研究から、健康に関係する社会科学や人文学まで多岐にわたります。

また、個別の研究テーマへの助成だけでなく、研究者のキャリア形成も重視しています。

この領域では、短期的な実用化や社会実装を必ずしも前提とせず、新しい知識や方法を生み出す科学的な独創性を支援しています。

4-2. Infectious Disease(感染症)

感染症領域では、ワクチン、治療薬、薬剤耐性対策、感染症対策のための研究などを支援しています。

特に重要なのは、科学研究によって生まれた成果を、感染症による疾病負担が大きい地域の人々に届けることです。

感染症対策では、新しい治療法やワクチンの開発だけでなく、必要な地域で利用できるようにする仕組みも重要となります。

Wellcome Trustは、研究開発と成果の普及を結びつける方向を強めています。

4-3. Mental Health(メンタルヘルス)

メンタルヘルス領域では、不安、うつ、精神病性障害などに関する研究を重視しています。

具体的には、病態の理解、早期介入、より有効な治療・支援方法の開発などに取り組んでいます。

また、症状に関する科学的なエビデンスの充実も重要な研究テーマです。

研究の進歩を通じて、メンタルヘルスの問題を抱える人々に、より適切な支援や治療を届けることを目指しています。

4-4. Climate and Health(気候変動と健康)

気候変動と健康の領域では、気候変動が人々の健康に与える影響と、それに対処する方法について研究しています。

対象となる課題には、猛暑、大気汚染、感染症の分布変化などがあります。

こうした健康被害を科学的に評価し、適応策の開発や政策への科学的知見の活用を進めています。

気候変動は環境問題であると同時に健康問題でもあるという認識に基づき、研究と社会的な対応を結びつけることを重視しています。

4-5. Wellcome Collection(文化・社会との対話)

Wellcome Collectionは、医学と人間の経験をつなぐ活動を担っています。

健康や医学に関連する展示、資料公開、イベントなどを通じて、科学への理解を深め、社会との関係づくりを進めています。

研究成果を専門家だけのものにせず、幅広い人々が健康や医学について考え、対話できる機会を提供している点が特徴です。

4-6. 地理的な重点の変化

Wellcome Trustは英国の研究基盤を引き続き重視する一方で、アフリカ、南アジア、東南アジアにおける研究への投資を拡大しています。

2026年6月に示した目標では、2030年までに活動中の研究投資の少なくとも25%を、アフリカ・南アジア・東南アジアに振り向けるとしています。[5]

これは、研究資金を単純に途上国へ移転することだけを意味するものではありません。

現地の研究者や研究機関が、自ら研究課題を設定し、研究成果を地域の健康改善につなげられるようにするという方針も含まれています。

研究資金の地域的な配分だけでなく、研究を実施する能力や意思決定のあり方も重視する方向への転換と理解できます。

5. 財務規模と活動の実態

2026年1月に公表された2024/25年度(2025年9月30日終了)の実績から、Wellcome Trustの活動規模を確認します。[2]

5-1. 財務・研究助成の主要指標

指標 2024/25年度の実績
投資ポートフォリオ 399億ポンド
負債控除後の総資金(total funds) 357億ポンド
慈善活動支出 19.16億ポンド
投資運用リターン 10.2%(ポンド建て)
実施中の研究助成件数 2,723件
実施中の助成総額 73億ポンド
研究助成の対象国 133か国

出典:Wellcome Annual Report 2025。[2]

なお、「実施中の助成総額73億ポンド」は複数年にまたがる助成の総額であり、単年度の支出額ではありません。

5-2. 年間慈善活動支出の増加

Wellcome Trustの年間慈善活動支出は、近年増加しています。

年度 慈善活動支出
2023/24年度 15.77億ポンド
2024/25年度 19.16億ポンド

2024/25年度の慈善活動支出は、前年度比で約21.5%増加しました。[2]

また、2032年までに合計160億ポンド以上を投じる計画に対して、2022年以降の累積支出は2025年9月末時点で約52億ポンドとなっています。

このように、Wellcome Trustは巨大な資産を保有しているだけでなく、研究助成や健康関連活動への支出を積極的に拡大しています。

5-3. 長期的な運用収益と財務持続性

Wellcome Trustの資産運用には、長期的な目標があります。

年次報告では、投資ポートフォリオの実質価値を長期的に維持するため、インフレ控除後で年4%以上の収益を目指す設計が示されています。

一方、直近3年間の実質年率リターンは1.4%と、短期的には目標を下回っています。[2][3]

この点は、Wellcome Trustの財務モデルを理解する上で重要です。

約400億ポンドの資産があるからといって、研究支出を無制限に拡大できるわけではありません。

将来の世代にも研究資金を残すためには、支出、インフレ、運用収益のバランスを長期的に維持する必要があります。

つまり、研究活動への積極的な投資と、財団そのものの永続性を両立させることが求められています。

6. Wellcome Trustが現在直面する主要課題

2026年6月に公表された「Wellcome's Strategy to 2032」では、世界の研究環境が大きく変化していることが示されています。[5]

ここでは、公式戦略と年次報告をもとに、Wellcome Trustが直面する主要な課題を6つに整理します。

6-1. 課題① 世界的な研究開発・国際保健資金の減少

各国の研究開発予算や国際保健支援の削減、英国の大学の財務問題、製薬企業の一部グローバルヘルス領域からの撤退などが、研究環境に影響を与えています。

2025年2月には、Wellcome TrustのCEOが、米国による国際保健・研究資金の削減について、アフリカやアジアの主要研究プログラムが直接的・間接的な影響を受けていると説明しました。

また、政府資金の減少分を民間財団だけで補うことは難しいとの認識も示しています。

この問題の本質は、Wellcome Trust自身が研究助成を増額しても、世界全体の研究・公衆衛生システムを単独で維持することはできないという点です。

政府、企業、他の財団との連携を通じて、限られた資金の効果を高める必要があります。[5]

6-2. 課題② 研究成果を実際の健康改善につなげること

基礎研究を支援することと、その成果が実際の医療現場に普及することの間には、大きな隔たりがあります。

例えば、新しい感染症治療薬が開発されたとしても、価格、薬事規制、製造体制、物流、医療アクセスなどが障害となり、必要な地域へ届かない場合があります。

Wellcome Trustは2026年戦略で、研究への資金提供だけでなく、政策、医療システム、地域社会との連携を強める方針を示しています。[5]

この課題の本質は、研究の成功を論文や新技術の数だけで測るのではなく、健康改善への実際の貢献をどのように測定し、実現するかという点にあります。

6-3. 課題③ 研究資金と研究成果の地域格差

研究を必要とする地域と、研究資金・研究設備・研究人材が集まる地域は、必ずしも一致しません。

Wellcome Trustはアフリカやアジアへの研究投資を増やす方針ですが、重要なのは資金額だけではありません。

研究課題を誰が設定するのか、研究成果を誰が所有・利用できるのか、現地研究者がどのようにキャリアを形成できるのかも重要な論点です。

また、創設者Henry Wellcomeの事業が英国の植民地政策や先住民の医療知識と関係していたことも、Wellcome Trust自身が公式の沿革で認めています。

歴史的なコレクションの取り扱いについても、是正の取り組みを進めています。[1]

この課題の本質は、従来の欧米中心の研究助成構造から、現地研究者やコミュニティが研究を主導し、その成果を享受できる仕組みへ転換することです。

6-4. 課題④ AI・データ科学の進歩と科学への信頼

AIと大規模データ解析は、創薬、ゲノム研究、診断、研究生産性などを大きく変える可能性があります。

一方で、AIの適切性、研究データの公平な利用、科学的な信頼性、研究成果に対する社会的な理解といった課題も存在します。

Wellcome Trustの2026年戦略では、データとAIの進歩を機会であると同時にリスクとして捉えています。

また、科学やイノベーションに対する信頼の低下も、外部環境上の課題として認識しています。[5]

この課題の本質は、技術の進歩を積極的に活用しながら、それが特定の国や組織に利益を集中させないようにすることです。

6-5. 課題⑤ 資産運用の持続可能性と倫理性

Wellcome Trustは長期運用によって研究活動を支えていますが、研究支出を拡大する局面では、運用収益の不確実性がより重要になります。

また、気候変動対策に資金提供する財団として、保有資産の温室効果ガス排出や投資先企業の行動への対応も求められています。

Wellcome Trustは、投資ポートフォリオを遅くとも2050年までにネットゼロにする方針を示し、企業との対話や責任投資を進めています。[3]

この課題の本質は、投資による収益確保、資産の長期維持、社会的責任という3つをどのように両立するかという点です。

6-6. 課題⑥ 研究助成機関から社会変革を促す財団への進化

2026年戦略を読む上で特に重要なのは、Wellcome Trustが自らの役割を、従来の研究助成者からグローバルな公益財団へと広げようとしている点です。

今後は助成金だけでなく、国際連携、政策への影響、研究成果の実装、新しい資金供給手法などを組み合わせる方針です。[5]

ただし、活動範囲が広がるほど、何に集中すべきか、何を他機関に任せるべきか、自らの貢献をどう評価するかという難しさも増します。

この課題の本質は、研究助成機関としての専門性や強みを維持しながら、より広い社会的な役割を果たしていくことです。

6-7. 現在の課題の総合整理

以上の6つの課題を整理すると、次のようになります。

課題 重要度の評価 Wellcome Trustに求められる対応
世界的な研究資金の縮小 高 他財団・政府との共同投資
研究成果の実装 高 医療現場・政策との接続強化
地域間の研究格差 高 現地研究者と研究基盤の強化
AIと科学への信頼 中〜高 データ活用とガバナンスの両立
財務・投資の持続可能性 高 長期運用と計画的支出
組織の役割拡大 高 重点領域の選択と成果測定

※重要度はWellcome Trustの公式格付けではなく、2026年戦略と年次報告を踏まえた本記事での定性的評価です。

これらの課題に共通するのは、研究に資金を提供するだけでは十分ではなくなっているという点です。

研究成果が実際の社会に届くまでの過程にも関わることが、今後のWellcome Trustにとって重要になると考えられます。

7. 今後の方向性と考察

Wellcome Trustの発展と現在の戦略を見ると、今後の方向性として3つの特徴が浮かび上がります。

7-1. 科学研究そのものへの投資を継続する

第一に、研究者の好奇心に基づく基礎研究や、大規模研究インフラへの支援を維持することです。

短期的な実用化に限定されない研究の価値は、今後もWellcome Trustの重要な柱です。

基礎研究によって生み出される知識は、必ずしも当初から用途が明確なわけではありません。

そのような研究を長期的に支援できることは、Wellcome Trustの独立した財務基盤がもたらす大きな強みです。

7-2. 世界の健康・研究システムへの影響力を強化する

第二に、多様なパートナーとの連携を通じて、研究資金、研究環境、政策、社会実装を一体的に改善する方向です。

感染症、メンタルヘルス、気候変動と健康のような課題は、個別の研究成果だけでは解決できません。

科学的な発見を制度、医療現場、地域社会の改善につなげる必要があります。

Wellcome Trustは、研究成果が社会に広がる過程にも関わる方向へと活動を拡大しています。

7-3. よりグローバルな研究・意思決定体制へ移行する

第三に、欧米中心の研究体制から、よりグローバルな研究・意思決定体制への移行です。

アフリカやアジアの研究基盤を強化し、各地域で研究成果を生み出し、利用できる能力を高めることを重視しています。

これは単なる研究資金の再配分にとどまりません。

研究テーマの設定、研究の実施、成果の利用において、現地の研究機関や研究者がより主体的な役割を担えるようにする取り組みです。[5]

8. Wellcome Trustから学べる組織モデル

Wellcome Trustは単なる医学研究の助成財団ではなく、複数の機能を組み合わせた組織として捉えられます。

特に重要なのは、次の4つの機能です。

8-1. 資金提供者としての機能

Wellcome Trustは、長期・大規模な研究助成を通じて、研究者や研究機関を支えています。

長期的な投資ポートフォリオを持つことで、短期収益に左右されない研究投資が可能となっています。

研究成果が現れるまでに長い時間が必要な分野において、こうした資金提供機能は大きな意義を持っています。

8-2. リスク引受者としての機能

Wellcome Leapなどを通じて、従来の研究助成では支援が難しい、高リスク・高インパクトの研究開発を支援しています。

通常の研究助成では、成果の実現可能性や研究計画の確実性が重視されることがあります。

これに対し、より挑戦的な研究を支援する機能を持つことで、新しい科学的・技術的可能性を開拓しています。

8-3. 研究基盤の形成者としての機能

Wellcome Sanger Instituteなどへの支援を通じて、個別の研究室や研究者を超えた共通基盤を整備しています。

大規模な設備、技術、研究ネットワークを形成することによって、幅広い研究活動を支える役割を担っています。

8-4. 社会的な調整者としての機能

Wellcome Trustは、政策提言、国際連携、市民との対話などにも取り組んでいます。

科学研究の成果を社会に届けるためには、研究機関だけでなく、政府、企業、医療機関、市民など、多様な主体との連携が必要です。

Wellcome Trustは、こうした主体を結びつける役割も果たしています。

8-5. 4つの機能の整理

機能 Wellcome Trustの取り組み 組織モデルとしての示唆
資金提供者 長期・大規模な研究助成 短期収益に左右されない研究投資
リスク引受者 Wellcome Leapなど 従来の研究助成では難しい挑戦を支援
研究基盤の形成者 Wellcome Sanger Instituteなど 個別研究を超えた共通基盤の整備
社会的な調整者 政策提言・国際連携・市民対話 科学成果が社会に届く仕組みの形成

Wellcome Trustの強みは、単に巨額の資産を保有していることだけではありません。

長期的な科学研究への投資と、研究成果を社会全体に届けるための機能を組み合わせていることにあると考えられます。

特に2026年の戦略は、研究への投入額そのものよりも、研究によって何を変えられるかを重視する方向を鮮明にしています。

9. まとめ:Wellcome Trustの約90年間が示すもの

Wellcome Trustの約90年間の発展は、「製薬事業から生まれた富を研究に還元する仕組み」から「世界的な健康課題の解決を支える独立した科学・公益基盤」への進化として捉えられます。

1936年の設立当初、財団の活動は製薬事業から継承した資産をもとに医学研究を支援することから始まりました。

1980年代から1990年代にかけては、製薬企業への直接的な依存を減らし、長期的な資産運用によって研究資金を供給する体制を形成しました。

さらに2020年以降は、基礎研究支援を維持しながら、感染症、メンタルヘルス、気候変動と健康といった重要課題への対応を強化しています。

そして現在、Wellcome Trustは、研究資金を提供するだけでなく、研究成果が実際の健康改善につながる仕組みを形成することにも重点を置いています。

今後の最大の課題は、資産を増やしたり研究助成を拡大したりすること自体よりも、限られた資金と組織的な影響力を使って、研究成果を公平かつ持続的な健康改善へ結びつけられるかという点にあると考えられます。

特に注目すべきなのは、基礎研究の自由度を維持しながら、実装まで見据えた研究投資や国際的な研究基盤の整備を進めるという、異なる時間軸の活動を同時に成立させようとしている点です。

これは、今後の研究助成機関や科学技術系公益財団のあり方を考える上で、重要な事例といえます。

研究助成の規模だけでなく、研究を支える環境をどのようにつくり、その成果を誰に、どのように届けるのか。

Wellcome Trustの歴史と現在の戦略は、こうした問いを考えるための多くの示唆を与えてくれます。

参考文献

[1] Wellcome, “History of Wellcome,” Wellcome公式サイト. https://wellcome.org/about-us/history-wellcome

[2] Wellcome, “Wellcome Annual Report 2025,” 2026. https://wellcome.org/insights/reports/wellcome-annual-report

[3] Wellcome, “Investments – How We Are Funded,” Wellcome公式サイト. https://wellcome.org/about-us/investments

[4] Wellcome, “Our Strategy,” Wellcome公式サイト. https://wellcome.org/our-priorities/strategy

[5] Wellcome, “Wellcome's Strategy to 2032,” 2026. https://cms.wellcome.org/sites/default/files/2026-06/Wellcome%20strategy%20to%202032.pdf