対象読者

  • UK BiobankやMillion Veteran Program(MVP)など、世界の大規模バイオバンクの成立経緯や運営モデルに関心がある方。
  • ゲノム医療、精密医療、医療ビッグデータ、電子健康記録(EHR)を活用した研究に携わる研究者・医療関係者・政策担当者。
  • 大規模な医療・健康データ基盤の構築や運営、研究利用、社会実装に関心がある方。

要約

  • 米国のMillion Veteran Program(MVP)は、退役軍人省(VA)が2011年に開始した大規模ゲノム・健康研究プロジェクトで、2023年11月に100万人の登録目標を達成しました。
  • UK Biobankが一般住民を対象とした研究コホートであるのに対し、MVPは既存の医療システムと電子健康記録(EHR)を基盤に、ゲノム情報、診療情報、生活習慣、軍務経験を結び付けている点に特徴があります。
  • MVPは遺伝的背景の多様性を活用した大規模ゲノム研究で成果を上げ、2026年10月時点で600報以上の研究論文を生み出しています。
  • 一方で、研究参加者の代表性、EHRの品質、研究利用可能なデータの整備、外部研究者のアクセス、情報セキュリティ、臨床応用が重要な課題となっています。
  • MVPの経験は、大規模バイオバンクの価値がデータ収集規模だけではなく、医療制度との接続、長期的な運営、研究成果の医療への還元によって決まることを示しています。

1. はじめに――米国Million Veteran Programとは

米国のMillion Veteran Program(MVP)は、米国退役軍人省(Department of Veterans Affairs:VA)が2011年に開始した、退役軍人のゲノム情報、診療情報、生活習慣、軍務経験、環境曝露情報を長期間にわたり統合・解析する大規模研究基盤です。[1][2]

英国のUK Biobankと同じく、将来のさまざまな研究に利用できる生体試料・健康情報のバンクとして構築されました。しかし、両者の成り立ちには重要な違いがあります。

UK Biobankが一般住民から研究参加者を募集した大規模集団コホートであるのに対し、MVPは、VAという巨大な医療提供システムが既に保有する電子健康記録(EHR)を、ゲノム研究と結び付ける形で発展した研究基盤です。

MVPは2023年11月に100万人の登録目標を達成しました。2026年10月時点では、150件以上の進行中の研究プロジェクトと600報以上の論文発表を伴う研究基盤へと成長しています。[3][4]

主要な数字を整理すると、以下のようになります。

項目 数値・時期
構想の基盤形成 2006年から
MVPの開始 2011年
100万人の登録目標達成 2023年11月
研究参加者数 109万人超(2026年10月時点)
進行中の研究プロジェクト 150件以上(2026年10月時点)
研究論文 600報以上(2026年10月時点)

MVPの発展を理解する上では、次の5つのポイントが重要です。

  1. 構想の出発点は精密医療(Precision Medicine)への転換です。 MVPは、2015年に始まったオバマ政権のPrecision Medicine Initiativeより前に計画・開始されていました。

  2. 成功の基盤は既存の医療インフラです。 VAの全国規模の医療ネットワーク、長期EHR、研究体制、生体試料バンクを利用できたことが大きな特徴です。

  3. 遺伝的多様性が研究上の強みです。 従来の欧州系集団に偏ったゲノム研究を補完する重要な成果を生んでいます。

  4. 100万人の登録と、100万人分の研究利用可能なゲノム・表現型データは同義ではありません。 検体処理、品質管理、追跡データの充実度、解析環境への公開状況には差があります。

  5. 現在の主要課題は、データの質と代表性、外部研究者のアクセス、個人情報保護、研究成果の医療実装です。 大量のデータを蓄積する段階から、研究成果をどのように医療の改善につなげるかという段階に移行しています。

以下では、MVPがどのように構想・開始されたのかを確認した上で、その特徴、研究成果、現在の課題、UK Biobankとの違いを整理します。

2. MVPはどのように構想され、開始されたのか

MVPは、突然始まった100万人規模の国家プロジェクトではありません。

2000年代半ばのVAにおけるゲノム医療政策、研究参加者の意向調査、研究倫理の整備を経て成立しています。

2006年:VAがゲノム医療イニシアチブを開始

2006年、VAは遺伝子の働きを医療に応用し、疾患の予防・治療を個別化するための取り組みを開始しました。

この動きが、後のMVPの政策的な土台となりました。[1]

2007~2009年:大規模ゲノムバンクの構想を具体化

VAの研究開発責任者であったJoel Kupersmith博士らが構想を推進しました。

この段階では、退役軍人が遺伝子研究への参加をどのように考えるかについて、フォーカスグループや調査を通じて確認が行われました。

2009年5月には、12人の医師・科学者がメリーランド州ロックビルに集まり、研究設計を検討しました。[1]

2010年:中央倫理審査委員会による承認

2010年、VAのCentral Institutional Review Board(中央倫理審査委員会)がMVPの研究プロトコルを承認しました。

MVPでは、参加者の情報と試料を、特定の単一研究だけでなく将来の複数の研究に利用することが想定されていました。

そのため、参加者の同意、個人情報保護、研究目的の範囲、将来の研究利用を適切に管理する仕組みが必要でした。

中央倫理審査委員会の承認は、MVPが継続的な研究基盤として稼働するための重要な節目となりました。[1]

2011年:参加者登録を開始し、全国展開へ

2011年初頭、MVPは参加者登録を開始しました。

同年5月5日、Eric Shinseki退役軍人長官の下で全国展開が発表され、100万人を目標とする大規模研究が正式に動き始めました。[2]

2012年:10万人の登録を達成

2012年、参加者数が10万人に達しました。

早期段階から、全国のVA医療機関による参加募集と、退役軍人への直接的な働きかけが機能し始めました。[1]

2016年:50万人を突破

2016年には、参加者数が50万人を突破しました。

MVPは大規模ゲノムデータベースへと成長し、2015年に発表された米国Precision Medicine Initiativeの一翼を担う研究基盤としても位置づけられました。[1]

2023年:100万人の登録目標を達成

2023年11月8日、MVPに100万人目の参加者が登録されました。

VAは11月15日に正式発表しています。

開始から約12年で、当初掲げた100万人という登録目標を達成したことになります。[4]

2024~2026年:大規模登録から高度解析・研究成果の蓄積へ

2024年には、約63.6万人を対象に2,068の形質を解析した大規模なゲノムワイド関連解析(GWAS)が、Science誌に発表されました。[5]

2026年10月には、累計600報を超える研究論文が公表されています。[3]

この時期のMVPは、参加者数の拡大だけでなく、収集したデータの高度解析、データの品質管理、オミクス研究の拡充、臨床応用を重視する段階に入っています。

構想段階における3つの重要な判断

MVPの成立を理解する上で、特に重要なのは次の3点です。

第一に、退役軍人の医療データを将来の医学研究に活用するという発想です。

VAは既に大規模な診療記録を保有していたため、新たにすべての医療情報を収集するのではなく、ゲノム情報や追加調査を既存の医療記録に結び付けることができました。

第二に、参加者の信頼と同意を設計段階から重視したことです。

遺伝情報を特定の研究課題だけではなく、将来の幅広い研究に利用するためには、参加者の理解、倫理審査、機密情報管理の仕組みが必要でした。

VAの公式歴史資料では、2010年の倫理承認が重要な障壁を越える出来事だったと説明されています。[1]

第三に、単一疾患の研究ではなく、長期的に利用する共通研究基盤を目指したことです。

心血管疾患、糖尿病、精神疾患、がんなど、後年のさまざまな研究を可能にする設計思想が採用されました。

これらの点から、MVPは単に「100万人のDNAを集めるプロジェクト」ではなく、医療制度・研究倫理・生体試料・EHR・研究者コミュニティを一体として構築するプロジェクトとして理解するのが適切です。

3. MVPの構造的特徴

3-1. 医療システムと研究基盤が一体化している

MVPの最大の特徴は、研究データを独立して収集するだけではなく、VAの医療システムと密接に連結していることです。

MVPの研究参加者からは、同意取得の上で、採血や質問票などによる情報が収集されます。

これらのデータは、既存のVA診療情報と結び付けられます。

主なデータは以下の4種類です。

データの種類 内容
ゲノム・生体試料 DNA、血漿、全ゲノム解析、その他オミクス
既存のVA診療情報 診断、処方、検査、入院・外来、画像・診療記録
生活習慣・自己申告情報 食事、喫煙、運動、家族歴、健康状態
軍務・曝露歴 従軍経験、配備、軍務特有の環境曝露

これらの情報は、統合データ基盤やセキュアな解析環境の下で管理され、データ品質管理、疾患表現型の定義、アクセス審査などを経て研究に利用されます。

研究成果の利用先は、大きく次の2つに分けられます。

  • ゲノム・疫学研究: 疾患関連遺伝子やリスク因子の発見。
  • 臨床応用研究: 疾患リスク予測、早期発見、個別化医療への応用。

ただし、ゲノム・疫学研究で得られた知見が自動的に臨床応用されるわけではなく、追加の研究や検証が必要です。

VAのEHRには診断名、検査値、処方、診療経過、臨床記述などが蓄積されています。

研究者は、例えば糖尿病と診断された人々の遺伝的特徴を比較するだけでなく、過去の検査結果や治療歴を使って、疾患の発症や進行との関連を検討できます。

さらに、必要な研究では、米国のNational Death Index(死亡情報)やMedicare・Medicaidの診療データを補完的に連結する仕組みもあります。[6]

3-2. 軍務経験・環境曝露という独特の研究情報

一般住民のコホートでは得にくい、軍務に関連した健康要因を研究できる点もMVPの特徴です。

対象となる研究領域には、次のようなものがあります。

  • 心的外傷後ストレス障害(PTSD)
  • 外傷性脳損傷
  • 物質使用障害
  • 湾岸戦争関連の健康問題
  • その他の軍務経験や環境曝露と健康との関連

軍務に特有の環境や経験と、遺伝的要因、疾病発症との関連を研究できることは、MVPの独自性につながっています。[7]

ただし、軍務に関連した曝露情報が、全参加者について同じ精度・完全性で得られているわけではありません。

曝露情報の取得方法や回答状況によって解析可能な対象者数が変わる点には注意が必要です。

3-3. 遺伝的背景の多様性

MVPの重要な成果の一つは、従来のゲノム研究で相対的に少なかった非欧州系の参加者を大規模に含んでいることです。

2023年11月時点の100万人超の登録者について、VAが公表した人種・民族の自己申告情報では、白人74%、黒人18%、ヒスパニック8%などとなっています。[8]

ヒスパニックは他の人種区分と重複する可能性があるため、これらの数値を単純に合計して100%とすることはできません。

また、2024年にScience誌に掲載された研究では、635,969人のゲノムデータについて、遺伝的背景に基づく解析集団の構成が示されています。[5]

遺伝的背景に基づく解析集団 人数 割合
欧州系参照集団に近い 449,042人 70.6%
アフリカ系参照集団に近い 121,177人 19.1%
混合アメリカ系参照集団に近い 59,048人 9.3%
東アジア系参照集団に近い 6,702人 1.1%
合計 635,969人 約100%

※割合は小数第1位に丸めています。また、この分類は遺伝的類似性に基づく解析上の区分であり、人種・民族の自己申告とは異なります。

この多様性は、単に参加者の属性が幅広いというだけではありません。

遺伝的背景が異なる集団を一緒に解析することで、それまで見つからなかった疾患関連の遺伝的シグナルを発見できることが、実際の研究で示されています。

4. 現在、どこまでデータが整備されているのか

2026年10月下旬に更新されたVA公式データページでは、参加登録者数が109万人超に達していることが示されています。

一方、データごとに研究利用できる規模は異なります。[6]

データ項目 VA公表の規模
研究登録者 109万人超
ジェノタイピング実施検体 100万超
品質管理・整備済みのジェノタイプ 65万超
全ゲノムシーケンス(WGS)実施 約19万
WGS研究利用可能 10.2万
DNAメチル化解析実施 8万
DNAメチル化研究利用可能 4.5万
ベースライン質問票完了 62.5万超
生活習慣質問票完了 50.8万超

※項目ごとの人数・検体数は、必ずしも同じ分母ではありません。

これらの数値は、MVPの現状を判断する上で重要です。

特に、研究基盤の成熟度を考える際には、次の3段階を区別する必要があります。

段階 規模 意味
参加登録 109万人超 研究参加者の規模の確保
解析利用可能なジェノタイプ 65万超 品質管理・整備済みデータの確保
研究利用可能なWGS 10.2万 高密度ゲノムデータの整備

これらは異なる処理段階・データ種別を示しており、単純な登録離脱率として解釈することはできません。

例えば、ジェノタイピング済み100万超の検体のうち、どの程度が処理待ち・品質管理待ちで、どの程度が解析対象から除外されたのかは、この公表値だけでは確定できません。

このように、MVPは100万人を集める段階から、100万人規模のデータを研究に利用できる状態にする段階へ進んでいると考えられます。

5. MVPが生み出した主な研究成果

5-1. 大規模・多集団ゲノム解析

代表的なのが、2024年7月にScience誌に掲載された次の論文です。

Verma A, et al. "Diversity and scale: Genetic architecture of 2068 traits in the VA Million Veteran Program." Science, 2024.[5]

この研究では、635,969人について、2,068の疾病・形質を対象としたゲノムワイド関連解析(GWAS)が実施されました。

主な成果として、13,672のゲノム上の関連領域が同定され、そのうち1,608領域は非欧州系集団を含めることで初めて統計学的に有意になりました。

この研究は、従来の欧州系中心の解析では見逃し得る遺伝的関連を見つけるために、参加集団の多様性が重要であることを示しました。

5-2. 精神疾患・退役軍人特有の健康課題

MVPでは、PTSD、うつ病、不安障害、物質使用障害などの研究が進められています。

2026年5月のVA公式紹介では、オピオイド使用障害、統合失調症、双極性障害、大うつ病性障害にまたがる遺伝的関連や、食料不安・婚姻状況などの社会的要因と自殺リスクとの関係を検討した研究成果が紹介されています。[7]

MVPの価値は、遺伝要因だけでなく、社会環境・生活習慣・既往歴を組み合わせて検討できることにあります。

5-3. ゲノム研究から臨床現場への橋渡し

2026年時点で注目されるのが、研究成果を実際の医療にどう還元するかという取り組みです。

代表的なものとして、MVP-ROARとProGRESSがあります。

MVP-ROAR:医学的に対応可能な遺伝的所見の返却

MVP-ROARは、家族性高コレステロール血症のリスクを示す遺伝的所見を持つ参加者を特定し、追加同意、臨床検査による確認、遺伝カウンセリング、主治医への情報共有につなげる研究です。

2024年には、パイロット結果と試験デザインが論文化されました。[9]

ProGRESS:前立腺がんの遺伝的リスクに基づくスクリーニング研究

ProGRESSは、MVPの男性参加者58.5万人超のデータを利用して開発・検証されたリスク予測手法について、従来のスクリーニングとの併用が進行性前立腺がんの発見に役立つかを臨床試験で評価する取り組みです。[10]

ここには重要な転換が見られます。

MVPはこれまで主として「疾病に関連する遺伝的特徴を発見する基盤」でしたが、現在はその知見を患者の早期発見や個別化診療へ結びつける試みが行われています。

ただし、これらは臨床応用の研究・評価段階にある取り組みです。

MVPの遺伝情報が日常診療に広く組み込まれたことや、疾病予後の改善が確立したことを意味するものではありません。

6. MVPが現在直面している課題

MVPの課題は、大きく6つに分けられます。

ここでは、公的機関が実際に指摘している課題と、研究デザインから考えられる構造的な限界を区別して説明します。

6-1. 研究対象者の代表性と選択バイアス

MVPは規模が大きく、人種・民族的にも多様ですが、米国の一般人口を代表するコホートではありません。

2023年11月時点の登録者構成では、女性は10%強であり、60~79歳が約55%を占めています。[8]

また、2015年8月時点の古いVA研究資料では、参加募集に対する応答率が13.2%と記載されています。

この値を現在の応答率とみなすことはできませんが、参加意欲や健康状態による選択バイアスを検討する必要性を示しています。

そのため、次のような研究では慎重な解釈が求められます。

  • 女性に特有の疾患や、妊娠・出産に関連した疾患
  • 小児や若年成人に多い疾患
  • 米国一般人口への疾病頻度・リスクの外挿
  • VAの医療サービスを利用する退役軍人と、利用しない退役軍人の比較

なお、遺伝的多様性に優れることと、年齢・性別・健康状態などの観点で人口を代表していることは、別の問題です。

6-2. EHRのデータ品質と長期追跡の完全性

VAの長期診療情報はMVPの強みである一方、EHRはもともと研究用に設計されたデータではありません。

例えば、診断コードが記載されていても、必ずしも疾患の詳細な重症度や発症時期が分かるとは限りません。

VA以外の医療機関で受けた診療が、VAのEHRだけでは把握できない場合もあります。

このため、MVPではCIPHER(Centralized Interactive Phenomics Resource)という仕組みを通じて、EHRから疾患を定義するアルゴリズムを標準化・共有しています。

また、必要に応じてMedicare・Medicaidや死亡情報を補完的に利用しています。[6]

ただし、標準化された疾患定義があっても、すべての欠測や測定誤差が解消されるわけではありません。

6-3. 研究利用可能なデータと参加者数の差

前述の通り、2026年時点で100万超の検体がジェノタイピングされていますが、VAが研究利用可能と明示する品質管理・整備済みジェノタイプは65万超です。[6]

大規模バイオバンクの価値は、単に集めた検体の数だけでは決まりません。

研究に必要なデータが十分に整備されているか、表現型情報と適切に連結できるか、解析手法を再現できるかが重要になります。

MVPでは全ゲノム解析、メチル化解析、メタボローム解析なども進めていますが、データの作成と品質管理には引き続き相当の作業が必要です。

6-4. 外部研究者のデータアクセスが限定的

UK Biobankと比較した際、研究プラットフォームとして特に大きな違いがあるのが、データアクセス方針です。

VAの現在の公式資料には、MVPの個人レベルデータについて、VA所属研究者が承認されたプロジェクトで利用する仕組みが中心であり、VAに所属しない研究者が主導する研究向けのアクセス制度は現時点で存在しないと明記されています。[6]

一方で、MVPのGWASなどの集計統計量は、米国のdbGaPを通じて外部研究者も利用できる場合があります。[8]

集計統計量へのアクセスと、個人レベルのEHR・ゲノムデータへのアクセスは区別する必要があります。

この制度設計には、次のような利点と制約があります。

限定されたアクセスの利点 制約となる点
機微な医療・遺伝情報を厳格に管理しやすい 外部研究者による独立検証が難しくなる
VA内での研究審査・管理を統一しやすい 国際共同研究の範囲が制約される
高セキュリティの解析環境を維持しやすい 研究コミュニティの拡大が限定される

これは制度設計上のトレードオフであり、データ保護の強化と研究利用の拡大をどう両立するかが今後の検討事項です。

6-5. 情報セキュリティとプライバシー

この点については、2026年に公表された米国政府監査院(Government Accountability Office:GAO)の報告書という重要な資料があります。

GAOは、2026年5月21日に公表した報告書において、MVPを支える主要システムの情報セキュリティ統制について課題を指摘しました。[11]

対象となった主な領域は次の通りです。

  • 資産・リスク管理
  • システム設定管理
  • ID・アクセス管理
  • 継続的な監視・ログ管理

GAOの報告によると、2025年9月に13件の勧告が行われ、2026年3月までに9件が実施され、さらに3件が部分的に実施されていました。

項目 件数
2025年9月の勧告 13件
2026年3月までに実施 9件
2026年3月までに部分的実施 3件

GAOは、これらの不備によって、機微な健康情報の機密性と完全性に対する保証が低下していたと評価しています。

ただし、この報告書は、MVPのデータ漏洩が実際に発生したことを示すものではありません。

また、13件の勧告の多くには既に対応が進んでいます。

大規模なゲノム・医療情報基盤では、データの価値が高まるほど、厳格なセキュリティ管理を長期に維持する重要性も増すことが分かります。

6-6. 研究成果を実際の医療改善につなげること

MVPは600報超の研究論文を生み出していますが、論文数と臨床的な有効性は同じではありません。

例えば、ある遺伝子変異が疾患リスクと関連することが分かっても、実際に診療へ応用するには、次の点を検証する必要があります。

  • 予測精度
  • 臨床的有用性
  • 費用対効果
  • 医師・患者の意思決定への影響

また、MVPの遺伝的解析は基本的に研究目的で行われており、参加者に個別の遺伝子検査結果を日常的に返却する仕組みではありません。

前述のMVP-ROARのように、追加同意を得て臨床検査で確認した結果を本人や医師へ返す研究が、医療実装への橋渡しとして始まっています。[9][10]

これからのMVPの評価では、「何人を登録したか」「何報の論文を出したか」に加えて、「どのような疾病の発症予防・早期発見・治療改善に貢献したか」が重要になると考えられます。

7. UK Biobankとの比較

MVPとUK Biobankを比較すると、米英の大規模バイオバンクの設計思想の違いが明確になります。

比較項目 UK Biobank Million Veteran Program
開始 2006年から参加者募集 2011年から登録
主な対象 英国の一般住民(登録時40~69歳) 米国の退役軍人
参加者規模 約50万人 100万人超
研究の基盤 人口ベースの前向きコホート 医療システム連結型コホート
健康データ 研究用のベースライン測定と、その後の医療記録連結 既存EHRと追加の質問票・採血
ゲノム研究 大規模なゲノム・オミクス研究 大規模で多様な遺伝的背景のゲノム研究
画像研究 10万人超を対象とする体系的な多臓器画像研究 EHR内の臨床画像・検査情報を利用可能
研究対象の特徴 幅広い一般的疾患・生活習慣・環境要因 一般的疾患に加え軍務・曝露関連疾患
研究者アクセス 国内外の承認された研究者に広く開放 個人レベルデータはVA所属研究者中心
臨床研究への接続 NHS等の診療データと連携 VAの医療提供体制と直接接続

UK Biobankは、研究目的に合わせて標準化された測定、ゲノム解析、オミクス、画像情報を組み合わせ、世界中の研究者が共通のデータ基盤を使うモデルを発展させてきました。[12]

一方のMVPは、長期間にわたる日常診療の記録と多様な遺伝的背景を持つ参加者を活用し、医学研究から同じ医療システム内での臨床応用へつなぐ可能性を持っています。

両者は競合するというより、研究デザイン上の弱点を相互に補える関係にあります。

実際、MVPで得られた遺伝的関連をUK Biobankで再現・検証する共同研究も行われてきました。

この比較から、UK BiobankとMVPは、どちらも大規模バイオバンクでありながら、研究データの収集方法、既存医療制度との関係、外部研究者への提供方針が異なることが分かります。

8. MVPの発展を3つの段階で捉える

MVPの構想から現在までの発展を整理すると、大きく3つの段階に分けることができます。

なお、この区分はMVPが公式に定めたものではなく、これまでの経緯に基づく分析上の整理です。

第1段階:構想・制度設計期(2006~2011年)

この時期には、既存の医療基盤を利用し、100万人の生体試料・医療情報を将来研究に使うための仕組みが整えられました。

主な取り組みは次の通りです。

  • 大規模ゲノム研究の構想
  • 参加者の意向調査
  • 倫理審査
  • 参加者募集体制の設計
  • 研究体制の構築

MVPの成立において重要だったのは、参加者数の目標だけでなく、既存のVA医療システムと研究基盤をどのように結び付けるかという制度設計でした。

第2段階:参加者拡大・研究基盤形成期(2011~2023年)

この段階では、全国のVA医療機関を通じた大規模登録が進められました。

同時に、EHRとの連結、ゲノム解析、研究者コミュニティの形成が推進されました。

2012年には10万人、2016年には50万人、2023年には100万人という登録規模に到達しています。

この時期を通じて、MVPは構想段階のプロジェクトから、大規模なゲノム・健康研究基盤へと成長しました。

第3段階:大規模解析・臨床応用への移行期(2024年以降)

2024年以降は、多集団GWASやオミクス研究の高度化、遺伝的リスク評価を医療へ還元する研究が進んでいます。

同時に、次のような課題への対応が重要になっています。

  • 研究利用可能なデータの品質管理
  • 高密度ゲノム・オミクスデータの整備
  • 研究データへのアクセス管理
  • 情報セキュリティ
  • 臨床的有用性の評価

このように、MVPの重点は、参加者数の拡大から、蓄積されたデータをいかに研究成果や医療の改善につなげるかへ移行していると考えられます。

9. 今後の展望――大規模バイオバンクの価値はどこで決まるのか

MVPの今後を考える上では、次の4つの点が重要です。

9-1. 高密度オミクスデータの拡充

ジェノタイピングだけでなく、全ゲノムシーケンス(WGS)、メタボロミクス、エピゲノム情報をどこまで大規模に整備できるかが重要です。

これらのデータを診療情報や生活習慣情報と結び付けることで、疾病の発症メカニズムやリスク要因を、より多面的に研究できる可能性があります。

一方で、データ作成、品質管理、保存、解析環境の維持に必要な作業も増大します。

9-2. 多集団リスク予測の精度向上

MVPの特徴である遺伝的背景の多様性を活用し、多様な患者集団に適用できる疾患リスク予測手法を開発できるかが重要になります。

従来の欧州系中心のゲノム研究を補完する成果が得られている一方、その成果を個人のリスク予測や臨床的な意思決定につなげるには、さらなる研究が必要です。

9-3. 研究基盤の利用可能性と信頼の両立

MVPは機微な遺伝・医療情報を扱っているため、厳格なプライバシー保護と情報セキュリティが不可欠です。

その一方で、研究成果の再現性を高め、外部共同研究を促進するには、研究者がデータを利用できる仕組みも重要になります。

個人情報保護と研究利用の拡大をどのように両立するかは、大規模バイオバンクに共通する課題です。

9-4. 医療アウトカムへの貢献の実証

MVP-ROARやProGRESSのような取り組みを通じて、発見された知見が実際の診療や健康アウトカムを改善するかが注目されます。[9][10]

大規模な研究基盤を構築し、多数の論文を発表することは重要な成果です。

しかし、医療への応用という観点では、最終的に疾病の予防、早期発見、治療の改善にどのように貢献するかを評価する必要があります。

10. 結論――MVPの経験から学べること

MVPの最大の特徴は、100万人規模のゲノム研究を実施したことだけではなく、既存の医療システムを基盤として、診療記録・生体試料・遺伝情報・長期追跡・臨床応用研究を連続的に結び付けたことにあります。

特に、既に全国的なEHRや医療機関ネットワークが存在する環境では、MVPの成立過程は大規模バイオバンク設計の重要な参考事例になります。

一方で、MVPの経験は、大規模コホートの構築が参加者募集の完了で終わるわけではなく、データ品質、代表性、信頼性、研究アクセス、臨床実装のための継続的な投資を必要とすることも示しています。

2026年時点で、MVPは100万人超の参加者と600報超の研究論文を持つ研究基盤へと発展しました。

しかし、参加者数の多さだけで、利用可能なデータの質や研究成果の臨床的価値が保証されるわけではありません。

今後のMVPを評価するには、研究利用可能なデータの整備、ゲノム・オミクス研究の高度化、プライバシーとセキュリティの確保、研究成果の臨床的有用性の検証が重要です。

なお、今回確認した公表資料だけでは、MVPの設立から現在までの総投資額、年間運営費用、参加者1人当たりのデータ収集費用について、整合的な時系列情報は得られていません。

また、研究成果による医療アウトカムの改善をプログラム全体で定量化した評価も確認できませんでした。

これらは、MVPの費用対効果を評価する際の追加調査項目です。

UK Biobankとの比較という観点では、MVPの事例から得られる最も重要な示唆は、「大規模コホートは何を集めるか」だけでなく、「どの医療制度・研究制度と接続して、長期的に何を実現するか」によって、その価値が大きく左右されるということです。

大規模バイオバンクは、単なる生体試料やデータの保管庫ではありません。

医療制度、研究倫理、データ基盤、研究者コミュニティ、そして臨床現場を結び付ける長期的な社会・研究インフラとして捉えることが重要だと考えられます。

参考文献

[1] U.S. Department of Veterans Affairs, "Object 33: The Million Veteran Program," VA History. https://department.va.gov/history/object-33-the-million-veteran-program/

[2] U.S. Department of Veterans Affairs, "The Million Veteran Program: VA's Genomics Game-Changer Launches Nationwide," 2011. https://news.va.gov/press-room/the-million-veteran-program-vas-genomics-game-changer-launches-nationwide/

[3] U.S. Department of Veterans Affairs, "Million Veteran Program Research," VA Office of Research and Development. https://www.research.va.gov/mvp/research.cfm

[4] U.S. Department of Veterans Affairs, "Million Veteran Program," VA公式プログラム情報・100万人登録達成に関する発表, 2023. https://www.research.va.gov/mvp/

[5] Verma A, et al., "Diversity and scale: Genetic architecture of 2068 traits in the VA Million Veteran Program," Science, 2024. https://doi.org/10.1126/science.adj1182

[6] U.S. Department of Veterans Affairs, "MVP Data Available for Research," Million Veteran Program, 2026. https://www.mvp.va.gov/pwa/mvp-data-available-research

[7] U.S. Department of Veterans Affairs, "Million Veteran Program Research," VA Office of Research and Development. https://www.research.va.gov/mvp/research.cfm

[8] U.S. Department of Veterans Affairs, "Million Veteran Program," 参加者構成・研究データに関する公式情報. https://www.research.va.gov/mvp/

[9] Vassy JL, et al., MVP-ROAR研究に関する論文, American Heart Journal, 2024. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/38762090/

[10] U.S. Department of Veterans Affairs, "From Health Research to Healthcare," 2026. https://news.va.gov/149786/from-health-research-to-healthcare/

[11] U.S. Government Accountability Office, "GAO-26-108651," Million Veteran Programの情報セキュリティに関する監査報告書, 2026. https://www.gao.gov/products/gao-26-108651

[12] UK Biobank, "UK Biobank," 研究基盤・研究者向けデータアクセスに関する公式情報. https://www.ukbiobank.ac.uk/